たとえば、もっとも新しい言葉で翻訳されているであろう2004年に翻訳された最終巻に、こんな訳文が
ある。
若い頃、悪態をつかずにいるのは、彼にはひどくつらいことだった。
(『ゲド戦記外伝』 Tales from Earthsea 原作;2001年、邦訳;2004年 240ページより。) 原文を照会しないで(がくっ。)訳するのもマヌケだが、私ならば、こう訳す。 若い頃の彼は、あらゆることに悪態をつかずにはいられなかった。
どうだろう。私の訳文のほうが読んでいて理解のスピードが加速すると思うけど、どう(笑)? しかし、ル=グウィンの文体と物語(=つまり、そのふたつは、「思想」&「思考方法」そのもの。)に長く付き合うと、「つらい」という言 い回しが重要になってくるのだ。 もちろん、それはル=グウィン独自というよりは、英語的、とゆーこともあるだろう。 それでも、「いられなかった」という能動性よりも、「つらい」という受動性にル=グウィンの世界観がある。 私の想像を加味してさらに踏み込んだ言い方をすれば、彼女の受動性には、受 難とし ての世界のイメージが表現への衝動に直結していると思うのだ。 アメリカでの彼女は小説家よりも、かなり熱心なフェミニスト運動家として有名だそうだ。 また、彼女の両親は執筆などを通じてアメリカ原住民へのシンパシーを説いてきた有名な文化人類学者の夫婦だ。 それらの情報が私を誘惑するのは、ル=グウィンとは、世界という「つらい」受動性において言葉を産んでゆく母体なのではな いのか、というイメージだ。 「ぎこちない」訳文は、著者の底にまで降りていってから再び日本語訳の上空へと、はい上がる作業の結果の、永遠の保留なのではないのか。
とくに犬飼の批評の最後に紹介されている、ル=グウィンと同じアメリカの児童文学作家ロイド・アリグザ
ンダーによる長編ファンタジーの一文は、示唆的だ。
犬飼がこの部分を引用しながら驚いているのは、これが『ゲド戦記』より先に書かれた、ってことと、 「アメリカ・インディアンの神話、伝説をもとにしたもの」ではなくて、「ケルト族 の 神話、古伝説マビノーギオンにもとづいて書かれたものであった」という発見。 つまり、「名前」=「名付け」がえぐりだす本質をめぐる考え方は アメリカ原住民族だけのものではなくて、全ての人間にとって普遍的である、という発見だったのだろうか。 犬飼の論考はここからが面白くなるはずなのだが、感嘆の声を上げて、ここで終わってしまう。その中途半端振りが私を、やや、あきれさせた んだけど(笑)。
そして私は第3巻『さいはての島へ』で壮年になったゲドが若いアレン王子に言うセリフである、 「そうだ。わしらは均衡というものを考えなくては
ならん。
それが破れると、人は他のいろいろなことを考え出す。真っ先に考え出すのは迅速さだ。」 (『さいはての島へ』 The Farthest Shore 原作;1972年、邦訳;1977年 240ページより。)
「社会」の「均衡」をキープしているのは、法律だ。ルソーの言葉では、「社会契約」としての法律だ。 ドロボウが悪いのではなく、窃盗が法律で禁止されているのが、「社会」だ。 小沢一郎が攻められるのも、抵触する法律がありそうだ、という可能性に対してであるから、 小沢一郎は(市民モラル意識よりも?)法律を守る事が検察との「戦い」だと思っている。 そして、時に法律をまたぐように、「超法規的措置」が行われる。 たとえば1977年のダッカ日航機ハイジャックで、日本赤軍が牢屋に入っている活動家を釈放させ、一緒に国外へ逃亡したことを政府が赦した事 件などだ。 もしくは、テロや、アナーキズムも法律を超えたものと言えよう。 また、セーラームーンの決めゼリフ「月にかわって、おしおきよ!」の「月」とは広義の「法律」であると解釈すれば、これも法律を超えたアナー キズムだ。 つまり、法律を超えたものとは、魔法なのではないのか?というのが私が持った テーマだ。 そうすれば、ハイジャッカーも、テロリストも、アナーキストも、セーラームーンも、魔法使いなのである。 では、正しさって何だろうか。 ハイジャッカーも、テロリストも、アナーキストも、セーラームーンも、魔法使いも、正しければ、超法規的でいいと私は思う。 しかし、その「正しさ」こそがさらに、ややこしいのだ。 『ゲド戦記』においても、当初は竜が悪の権化として登場するが、第5巻で、最年長の竜であるカレシンがこう言う。 「その昔、我々は選んだ。我々は自由を選び、人間はくびき
(=法律)を選んだ。
我々は火と風を選び、人間は水と大地を選んだ。我々は西を選び、人間は東を選んだ。」 (『アースシーの風』 The Other Wind 原作;2001年、邦訳;2003年 213ページより。) ただし、(=法律)は私による注釈。 こう竜に言われると、ついに「正しさ」も相対性の霧の向こうのものとなる。 それでも、既成概念の(=つまり、「法律」も含む)「正しさ」を超えた、本質的な「正しさ」を求めることを止めてはいけない。 たとえば『ゲド戦記』第4巻では、簡単な言葉である「公平」を使う。 (それはちょっと公平さを欠いた見方じゃな
い?)ゴハがテナーに言った。
(『帰還 - ゲド戦記最後の書 -』 Tehanu, The Last Book of Earthsea 原作;1990年、邦訳;1993年 251ページより。) 「公平」とは易しい言葉ではあるが、「公平」を徹底することは厳しいことだ。 それは法律を守ることよりも厳しい。いわば、アナーキーな地平ですらある。 もちろん、「公平」とはそんな例のひとつにしかすぎず、まだまだ我々は法律よりも、「正しい」言葉を捜す厳しい旅を続けなければならないの だ。 だから、法律を超えた存在としての、魔法なのだ。 既に全てが理解され書かれていると思い込まれているこの世界を、 もう一度、最初からぜんぶ自分で(=「ひとり」で?=「孤独」?)新しい(=「正しい」?)言葉で書いてみるということだ。 それは、「名付ける」ということであり、自分で世界を抱きしめることだ。 実は「考える」とは、そのことを言うのだ。 そして、「魔法とはこ とばだ」とは、そのことであり、 厳しい旅だからこそ、清水真砂子の訳文は「ぎこちない」まま、世界にむき出しに なって、いつ までも立ち尽くしているのだ。 ▲私の蔵書。左から、
ゲド戦記 第1巻 『影との戦い』 A Wizard of Earthsea (原作1968年、邦訳1976年) ゲド戦記 第2巻 『こわれた腕環』 The Tombs of Atuan (原作1971年、邦訳1976年) ゲド戦記 第3巻 『さいはての島へ』 The Farthest Shore (原作1972年、邦訳1977年) ゲド戦記 第4巻 『帰還 - ゲド戦記最後の書 -』 Tehanu, The Last Book of Earthsea (原作1990年、邦訳1993年) ゲド戦記 第5巻 『アースシーの風』 The Other Wind (原作2001年、邦訳2003年) ゲド戦記 第6巻 『ゲド戦記外伝』 Tales from Earthsea (原作2001年、邦訳2004年) 清 水真砂子『学生が輝くとき』 (1999年1月22日、初版、岩波書店) 『文学空間』 批評の零点 1 (1979年3月20日、初版、創樹社) |