太宰 治 ★ 共犯とは、 優しさの事ではないかしら。 |
太宰治が青春に読まれ、そして青春を終えた者に読まれないのは、太宰が「新しい」からだろう。
「新しさ」とは、まぶしさのこと。 しかし、ピカソやビートルズの「新しさ」は、繰り返しの鑑賞にたえられるということも証明している。 だから、太宰を「再読」する、とゆー発想はすげー魅力的。びっくりした(笑)。で、この機会に、ありがとう。 「没落」と、気取ってみたところで、とどのつまり、リストラってこと。 今の日本は、大リストラの時代、らしい。 でも、私が知ってる日本の大リストラは、2度あった。 1度目は、明治維新。この時は、大量の武士がリストラ、 された。 2度目は、第二次世界大戦後。この時は、大量の軍人がリストラ、 された。 あの大量の武士は、どうなったのだろう。 あの大量の軍人は、どこへ行ったのだろう。 そして今、みたび、我らは、どうなり、どこへ行くのだろう。 『斜陽』のようにさわやかに 生涯で読んだ小説は、『斜陽』だけ。・・・って人はいないでしょ、そりゃ。で、多くの人は青春期に読む。で、太宰教に入信せずとも、読書教 の洗礼を受けちゃう わけだ。だから、『斜陽』の次に何を読んだか?が重要になるし、それがまたぐるんと回って、次に読んだ本がその人にとっての『斜陽』のイメー ジを相対的に位置 づけちゃう。『斜陽』ってそんな小説だと思う。たとえば、60年代の若者の多くは『斜陽』の次に柴 田翔『されどわれらが日々―』を読んで恋 と革命をマジメ に悩んだだろう。70年代の若者は次に五島勉 『ノストラダムスの大予言』 を読んで、直治のキブンでUFOの到来を待っただろーし、80年代の若者は次に村上春 樹『ノルウエイの森』を読んで偽悪的にDCブランドのスーツを買いに行っただろう。90年代の若者は次に渡辺淳一『失楽園』を読んで性モラル のプチ革命を試した かもしれないし、ゼロ年代の若者は 重松清『とんび』を読んで家族の再生を誓うのだろう。このように次 に読んだ本とお互いにイメージを侵食し合う作用を起こ すからこそ、『斜陽』の読後記憶は個人差が激しいし、常に新しいのだ。 1980年、私は18歳だった。
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