John Lennon |
共犯意訳 ★
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「芸術」は、「新しいもの」を見せてくれる。
でも、時々、「芸術」は、「忘れていたもの(≒こと)を想い出させてくれる」。 まるで、「ゆめ」みたい。 『いすのゆめ』とゆー展覧会に迷い込んだ。札幌の西にある、コンチネンタル・ビルの地下室。 ゆめを見るものは、いつも抱かれているもの。 でも。 抱いているものも、ゆめを見てもいいはずだ。 北海道の冬のはじまりのストーブは、催眠術をつかう。 ストーブの前に置いたいすで読書をしようとすれば、いつも&いつのまにか、眠っちゃう。 いすに抱かれてゆめを見る。 そして、私を抱いているいすもゆめを見ているのかな。 「ゆめを見るのは、抱かれる側の役割」だとばかり思い込んでいるのは、私がまだ「こども」だからだろうか。 抱っこしてくれているものも、抱きながらゆめをみていてもいいはずなんだよね。 ならば問おう。「こども」って、何? みんなで見るゆめは、なんだか汚れているように感じてしまうのは、私がまだ「こども」だからだろうか。 この展覧会に展示されているいすは、どれもが、一人がけ用ばかり。 9人の作家による、一人がけのいすたち。 抱っこされたいにんげんが、抱っこするいすを選び、そっと座る。 この日も、私はいくつものいすに座った。 朝、ベッド・ルームのソファでひげをそり、久保商店のいすで電話をとり、書斎のいすでメールを確認し、トイレにしゃがみ、 マークXのいすで札幌へ行き、ホテルのいすで会食をし、商談会のパイプいすで値決めをし、バーのいすで秘密を知り、マークXのいすで帰宅 した。 人生は、次のいすから次のいすへ抱かれにいくこと。 別々のいすは、別々のゆめを。 別々のゆめは、別々のいすを。 永田まさゆきの作品は、木で作られたいすが5つ、輪を描いている。 なんだか、動物園みたい。 その題は、「朝は四つ足でやってくる」。 嗚呼、私がこの日、座った≒抱かれたいすは、ぜんぶ、四つ足だった! そして、人間はとおいむかし、四つ足だったのだ、とゆー「忘れていたもの(≒こと)を想い出させてくれる」。 嗚呼、「とおいむかし」の記憶を持つ動物のことを、「人間」と名づけたんだね。 「とおいむかし」の末裔を、「こども」と呼ぶんだね。 白亜紀のゆめをみるこども。 展覧会には、四つ足ではなく、二つ足のいすが二つ。 ひとつは、清水郁太郎「さんぽ(いす)」。 四つ足が二つ足になるって、「進化」なのだろうか。 めんどくさい「進化」の果て、いすは、すたこら、どこかへ勝手にいっちまう。 もうひとつは、國松希根太「DUO」。
四つ足が二つ足になるって、「退化」なのだろうか。 めんどくさい「退化」の果て、いすは、壁に刷り込まれ、もうどこにも勝手にいけないだろう。 清水のカリカチュアされたユーモアは、この展覧会の全体に薄くただよっているイメージだ。 その中で國松は唯一、ユーモアを拒否しているようだ。それは、きびしさ。しかし、そこに、やさしさを隠すことができないのは木のぬくもり か、國松のゆめか。 会場のギャラリーは、ちょっと変わったレイアウトで、船のような曲線や、へこんだ鍵状の隠れスペースなどがあり、展示はそれが最大限に生 かされている。 いすの曲線も、いすのへこみも、ぜんぶ抱かれるものを隠してくれるために。 いすに座ってゆめをみよう。 そのいすがゆめを見るように。 ゆめが私の影ならば、 私はいすの影。 私がいなくても、きっとあの部屋にいすはあるのでしょう。 四つ足の私が、四つ足のいすに抱かれるとき、見るゆめは9本目の足。 |